ピカソの名作10選~知れば楽しくなる見どころポイントを紹介します!

ピカソの「名作」言えば、どの作品を思い浮かべるでしょうか?また、そんなピカソの名作といわれる作品は、他の作品とどんなところが違ってスゴいのでしょうか?少しでもそんな知識を持って見ると、絵画の見方も違ってくるかもしれません!このサイトでは、美術好きな私が選ぶピカソの名作10作品と、各作品の見所をご紹介します。

ピカソ晩年の名作「接吻」。制作の裏には愛と情熱を与え続けた女性がいた。

ピカソ晩年の名作「接吻」。制作の裏には愛と情熱を与え続けた女性がいた。

うねるような曲線と、量感あふれる男女が描かれた「接吻」は、ピカソが晩年に描いた名作です。ピカソは付き合う女性によって、さまざまに画風が変化してきました。

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ちなみに、「接吻」が描かれた頃、ピカソはジャクリーヌ・ロックという女性と2度目の結婚をしています。ピカソは80歳、ジャクリーヌが34歳という年齢差での結婚でした。

彼女は、ピカソが亡くなるまでずっと側にいて、彼の芸術活動を支え、数多くの作品のモデルも務めています。その数は、400点以上にも及んでおり、ピカソが彼女をどれだけ愛していたかがわかります。

このように、晩年のピカソを生活面、芸術面の両方から支えたジャクリーヌですが、いったいどのような女性だったのでしょうか。

彼女はパリ出身で、幼いころに父親が母の元から去ったため、母子家庭で育ちました。その後、機械工の男性と結婚しますが、この男性とは離婚し、南フランスに引っ越します。

美しい女性ですが、なかなか苦労の人生を歩んでいたようです。

そして、彼女が26歳の時にピカソと出会うのですが、先に惚れたのはピカソだったようです。彼女に熱烈なアプローチをして、とうとう結婚するまでに至ります。

ジャクリーヌは、料理などの家事をこなしつつ、ピカソの友人たちの接待もそつなく行っていました。また、スペイン語での会話もできたため、社交能力も高く、ピカソを満足させていました。

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そんな愛する妻をモデルにして、ピカソの創作活動は勢いを増していきます。「接吻」が描かれた1969年は、この年だけで165点の作品を生み出しました。

ピカソが目指した画風は「子どものように自由奔放な画風」でした。力まず、自由にのびのびと描けるようになることを目的としていたピカソ。

その言葉通り、晩年になるほど絵筆は生き物のようにキャンバスを自由自在に動いていきました。

それは、「接吻」の筆運びをみてもおわかりかと思います。

男性の髭や女性の髪の毛は、植物のようにうねっています。また、二人の厚い肉体は粘土のようにぴったりと密着しています。

画面いっぱいに描かれた情熱的な肉体と対照的に、背景の水色のストライプ模様が全体をひきしめてくれています。

晩年になっても老いを全く感じさせない「接吻」は、若い頃からのテーマとなっている愛と情熱に満ちています。

88歳になっても男女の愛を描ける作家は、おそらくピカソくらいではないでしょうか。ジャクリーヌへの愛があったからこそ描けた作品なのかもしれません。

ピカソの名作「帽子と毛皮の襟をつけた女」。絵に込められたモデルとの情熱的な恋。

ピカソの名作「帽子と毛皮の襟をつけた女」。絵に込められたモデルとの情熱的な恋。

ピカソが描いた名作「帽子と毛皮の襟をつけた女」は、不思議な魅力にあふれています。極彩色で描かれた人物、左右がアンバランスな顔、女性の憂いを帯びた視線。どれをとってもピカソならではの表現で満ちた作品です。

帽子の女性

この作風は、彼が画家生涯の後半で創り上げたものでした。数多くの画風を創っては打ち破ってきたピカソですが、その影には彼と付き合った女性たちの影響がありました。

そんなピカソを取り巻く女性たちの一人、マリー・テレーズがモデルとなったのが今回ご紹介する「帽子と毛皮の襟をつけた女」です。

彼女が17歳のとき、パリの街中でピカソに声をかけられて交際が始まりました。この時、ピカソの年齢は45歳。親子ほど年が離れた相手との恋愛関係でした。

彼女がピカソの愛人になったとき、彼にはすでにオルガという妻がいました。つまり、三角関係になっていたわけです。

そのため、ピカソはマリーとの付き合いもこっそりと続けていたようです。自宅から離れた古城を買い、そこにアトリエとして拠点を移してマリーをモデルに作品を製作するようになりました。

もともと、スポーツが好きで芸術に関心が無かったマリーは、ピカソにとって心を許して接することができる人物でした。

そのためか、彼女がモデルになった作品は、穏やかに眠っていたり、物静かな表情で何かを見つめていたりと、安心感が漂うものが多いのです。

そこで、「帽子と毛皮の襟をつけた女」をもう一度見てみましょう。画面の女性は、マリー独特の物静かで、どこか悲しげな表情をしています。

モデルの顔は、黄色、青、赤などの原色で表現され、格子や花のような模様も描かれています。また、右半分は正面をむき、左側の顔を横向きで描くというキュビズムの手法も使っています。

まるで、女性の顔を一度に色々な方向から見ているかのような不思議な錯覚にいざなってくれますね。

それに、帽子や衣服に使われている黒のバランスも絶妙です。色彩豊かな画面のなかで、黒が調度よく全体を引き締める効果になっています。

このように、ピカソのモデルとなって数多くの名作を創るきっかけとなったマリーですが、やがて、その愛にも終わりが訪れます。

彼女がピカソとの子供を出産した頃から、彼の愛が遠のいていきました。なぜなら、すでにピカソには新しい愛人がおり、マリーは邪魔な存在になっていたのです。

子供

その新しい愛人とマリーとが、ピカソの愛を巡ってトラブルを起こしていたのが、この作品ができた1937年です。

もしかしたら、画面の女性が物憂げなのは、ピカソとの愛と嫉妬に苦しむマリーの心が現れているのかもしれません。

ピカソが描いた新古典主義の名作「海辺を走る二人の女」に影響を与えた女性とは?

ピカソが描いた新古典主義の名作「海辺を走る二人の女」に影響を与えた女性とは?

ピカソの作品は、同一人物が描いたと思えないほど、画風が変わっていきます。10代の頃は、写実的なデッサンに基づいて描いていますが、だんだんと抽象的な描写に変化しています。

20代中頃には、キュビズムと言われる手法で、モデルや静物をデフォルメしたり、抽象的な形に置き換えたりして描きました。

その後、さらに画風は変化して、新古典主義という作風を取り込んで名作「海辺を走る二人の女」を生み出します。

海辺

この画風は、モデルをデフォルメせずに、写実的に描くとともに、イタリアの古典美術の要素も取り入れています。

この作風が出来有るきっかけは、一番目の妻となったオルガ・コクローヴァの存在が大きく関係しています。

オルガと出会う直前、ピカソは友人から、ロシアバレエ団の衣装や舞台装置の制作を依頼されていました。そこで活動するうちに、バレエ団に所属していたオルガと出会ったのです。

好きになった女性をモデルに描くのは、ピカソの得意とするところです。もちろん、オルガのこともモデルにしますが、彼女からピカソに「自分の姿を誰が見てもわかるように描いてほしい」と言われます。

持ち味にしていたキュビズム表現を拒否されたため、古典的な手法で彼女を描きました。さらに、同時期に旅行したイタリアで、古代の美術作品に影響を受けて、これまでとはガラリと作風を変えました。

画面には明るい色彩を使い、モデルの肉体は量感と生命力溢れる描写をするようになります。こうした作風は、ギリシャ・ローマ彫刻や絵画の豊満な肉体美から影響を受けていると言われています。

こうした流れのなかで生まれたのが「海辺を走る二人の女」です。画面の中に描かれている女性は、輝く青い海を背景にして、浜辺を走っています。

その肉体は、イタリアの古典彫刻のように豊満な肉体として描かれ、走る姿も生き生きとしています。

彼女たちの大げさなくらいの躍動感は、バレエ団の仕事をするなかで見つけた描き方でした。画面の女性を良く見ると、バレリーナたちがとるポーズに似通っているのがおわかりかと思います。

バレエ

さらに彼の凄いところは、イタリア古典美術やこれまであった写実表現だけにとどまらす、抽象的な表現も混ぜていったこところです。

「海辺を走る二人の女」で言うと、彼女たちの顔や胸などは古典美術の影響が見られますが、腕や足は極端に太く丸太のように描かれています。

この作品は、32.5㎝×41.1㎝とサイズはそれほど大きくありません。それでも、画面から溢れんばかりの生命力と躍動感によって、大きな存在感を感じさせてくれます。

愛する妻の好みによって、どうしても作風を方向転換させなければならなかったピカソ。イタリア旅行やバレエ関係の仕事をするうちに見つけた画風は、またしても名作を生み出すことになりました。

青の時代を代表する名作「生」。そこに秘められたピカソを襲った悲劇とは!

青の時代を代表する名作「生」。そこに秘められたピカソを襲った悲劇とは!

ピカソと言えばどのような絵をイメージするでしょうか。派手な色彩と、自由で力強い筆運びの作風を連想する人は多いはず。

しかし、そういったイメージと同じくらい有名なのが「青の時代」と呼ばれる作風です。

この時期の作品は、深い海の底にいるような静かな雰囲気と、青を基調とした描写が特徴です。

こうした時期の代表作となるのが「人生(ラ・ヴィ)」という作品です。「生」、「命」などに訳されることもあります。

ラ・ヴィ

画面左側には、体を寄せ合う男女が描かれ、右に赤ん坊を抱いた母親が配置されています。また、彼らを分かつように、画面の真ん中には苦悩する人物が描かれたキャンバスが2枚置かれています。

謎かけのようなモチーフが散りばめられた「人生(ラ・ヴィ)」ですが、詳しい解釈は難しく、今でも謎の多い作品となっています。

ただ、一つはっきりとわかることは、この絵は、ピカソを襲った悲劇が深く関係しているということです。

その悲劇とは、彼の親友であるカルロス・カサヘマスの死でした。ピカソはパリで芸術活動をするために、親元を離れますが、その時にカサヘマスも一緒でした。

彼とピカソは同じアトリエで絵を描きはじめます。カサヘマスは、そこに出入りしていたモデルの一人ジェルメーヌに恋をします。

しかし、この恋はカサヘマスの一方通行で終わってしまい、失望した彼はジェルメーヌと無理心中を図り自殺してしまいました。

ピカソにとって、カサヘマスは、パリ生活において力強い存在だったに違いありません。そんな彼が、自殺という悲劇的な死を遂げて、ピカソの元から去ってしまったのです。

失意のどん底に落ちたピカソは、彼の死をきっかけとして青の時代へ突入していきます。

海

その代表作と言われる「人生(ラ・ヴィ)」からは、まさにピカソの悲しみと鬱屈した思いが伝わってくるようです。描かれている人物たちの肌も、ピカソの悲しみを映し出したように、死人のように白く、表情も陰鬱です。

画面左に描かれている男女は、カサヘマスとジェルメーヌ。

右に描かれた幼子と母親は聖母子を現していると言われています。

また、画面真ん中の苦悩する人の絵は、ピカソ自身ともカサヘマスともされていますが、はっきりした解釈はされていません。

こうして、悲しみだけで描かれたような作風は4年間ほど続いていきます。それほど、親友の死がピカソを苦しめ続けました。

もしかしたら、キャンバスに描くことで、自分が抱え込んでしまった大きな悲しみを少しずつ癒していったのではないでしょうか。

まるで宗教画のような静けさをたたえたこの作品「人生(ラ・ヴィ)」は、ピカソの深い悲しみから生まれた名作でした。

青年ピカソが描いた「アビニヨンの娘たち」。近代美術の先駆けとなった名作をご紹介!

青年ピカソが描いた「アビニヨンの娘たち」。近代美術の先駆けとなった名作をご紹介!

自由奔放な色使い、子どもが描いたような人物表現、丸や四角で描かれる静物。こういた作風は、いかにもピカソらしさを現しています。

しかし、このピカソの代名詞にもなる作風は、彼の長い人生の中で様々に画風を変化させながら創られていきました。

もともと、ピカソは写実的に絵を描くのはお手の物でした。幼少時には大人も顔負けの写実的なデッサンや油彩画を残しています。

そんな彼が、自分なりの表現である「子どものように自由奔放な作風」を確立するきっかけになった作品があります。

その作品とは「アビニヨンの娘たち」です。この名作は、ピカソがパリで芸術活動を始めた頃に描かれました。

アヴィノン

題材となっているのは、スペインのバルセロナにあるアビニヨという通りにあった売春宿で働く娼婦達です。

絵の中には裸の女性たちが、大胆なポーズをとって描かれてします。しかし、人物の体をよく見ると、これまでヨーロッパでメジャーだった写実的な描き方ではなく、漫画のようにデフォルメした形で表現しています。

バルセロナ

さらに、右側の女性2人の顔は、仮面のような表情になっています。この顔は、ピカソの故郷であるスペインで伝わっている古代イベリア彫刻からヒントを得ていると言います。

確かに、彼女たちの顔を見ていると、どこか民族的で原始的な力が伝わってくるようです。

漫画のように平面的な描写、デフォルメされた女性の体、仮面のような顔。こういった作風は、当時の芸術家や評論家に、とても大きな衝撃を与えました。

この作品を見た人物の中に、ピカソの芸術仲間であったアンリ・マティスもいましたが、彼も否定的なコメントを残しています。

その他の評論家や芸術家たちも、今までにない作風だったため散々な評価を下しました。

また、もともと、この作品のタイトルは「アビニヨンの売春宿」というものでしたが、不道徳だという理由で「アビニヨンの娘たち」に変更させられたりしています。

このように、とてもセンセーショナルな作品として、世に発表された「アビニヨンの娘たち」。

しかし、この名作が出なければピカソ独自の作風だけでなく、この後に続くキュビズム系の芸術は発展しなかったかもしれません。

もともとヨーロッパでは、写実的で遠近法を使った手法が尊重されていました。しかし、そういった作風も時代が進むにつれて行き詰っていきます。

そういった風潮を打開しようと挑戦したのが「アビニヨンの娘たち」だったのです。

ピカソは、この作品のために数多くの習作を描いています。それだけでも、彼が何か新しいものを創造しようとした意気込みを感じることができます。

芸術史の需要なターニングポイントとして、「アビニヨンの娘たち」はとても重要な作品なのです。

ピカソが生涯大事にしていた名作「ドラ・マールの肖像」。その理由とは?

ピカソが生涯大事にしていた名作「ドラ・マールの肖像」。その理由とは?

ピカソが描いた名作「ドラ・マールの肖像」の画面の中では、青、黄色、緑、橙と、何とも鮮やかな色彩が踊っています。人物の派手な色使いとは対照的に、背景は白を基調としており、そのコントラストが見る者の目を引き付けます。

ドラ・マール

また、描かれている女性もとても魅力的です。右手を頬にあて、わずかに微笑む女性の姿は、鑑賞する人を虜にしてしまいます。

この、不思議な魅力をたたえたモデルは、ピカソの愛人であったドラ・マールという女性でした。

彼女は、パリで活動する写真家で、ピカソの芸術活動に共感し、彼の創作活動の記録もしていたと言います。

特に、名作「ゲルニカ」の創作過程を写真に撮ったり、絵のモデルを務めたりと、ピカソの芸術活動に無くてはならない存在でした。

愛人としてだけではなく、お互いを刺激し合う芸術仲間として、ピカソはドラ・マールと切っても切れない関係になっていきます。

そもそも、ピカソと彼女が出会ったのは、1936年のパリのカフェでした。気持ちの揺れが大きく、芸術的な才気を持ち合わせた美女のドラ・マールに、ピカソはあっという間に虜になりました。

彼女と愛人関係を持つようになった時、実は、ピカソにはマリー・テレーズという愛人がいました。しかし、彼女は、ピカソの芸術活動にほとんど関心を示しませんでした。

そんな彼女に比べて、自分と対等に、芸術という舞台の上で付き合ってくれるドラ・マール。

ピカソとドラ・マール

ピカソにとって、愛と情熱を共有できる唯一の女性であったかもしれません。

そんな彼女を大切に想っていたピカソの感情が、この絵から伝わってくるようです。肌の色を黄色や桃色といった暖かな色を基調とし、優しい水色や緑で陰影をつけています。

また、わずかに微笑む口元と正面を見つめる視線からは、優しさと穏やかさが伝わってきます。

さらに、ピカソは自らが開発したキュビズムという手法で、彼女の魅力を表現しようとしました。

どんな表現を使ったかというと、色々な視点から見たモデルの顔を同時に描くというものです。

「ドラ・マールの肖像」に描かれた女性の顔をよく見ると、正面向きの顔と、横顔を同時に描いているのがおわかりでしょう。

右目と右半分の顔は正面を向いていますが、左側の顔は横を向いています。

モデルの色々な面を同時に描くことで、対象物の魅力を最大限引き出そうとしたのです。

ピカソは、数多くの名作を残しましたが、この「ドラ・マールの肖像」は、自分の手元に置きつづけました。

恋多き人生を歩んだ中で、愛と芸術的感性を満たしてくれたドラ・マールは、彼にとって掛け替えの無い存在であったのではないでしょうか。

ピカソは、絵を見るたびに彼女への愛を思い出していたのかもしれません。

ピカソの名作「泣く女」には、濃厚で華麗な恋愛事情が隠されていた!

ピカソの名作「泣く女」には、濃厚で華麗な恋愛事情が隠されていた!

ピカソと言えば、派手な色合いと、はっきりとした太い線で人物や物を描くのが特徴です。そんなピカソならではの表現を代表する作品が1937年に描かれた「泣く女」です。

泣く女

青、赤、黄色、緑等の派手な原色を使用し、女性がハンカチを食いしばって泣く姿が描かれています。眉が八の字に寄せられ、眼からは涙が流れ、口をゆがめてハンカチを噛む姿は、一度見たら忘れられないほど印象的です。

この絵の女性は、ピカソの愛人であるドラ・マールをモデルに描かれています。彼女は、とてもよく泣く人物だったので、その姿をピカソが好んで描いたとされています。

それでは、ピカソが好んでモデルにしたドラ・マールとはどんな人物だったのでしょうか。

彼女は、フランスの写真家で、芸術活動にとても深い理解がありました。その点でピカソとも相性が良かったようです。

さらに、ピカソはフランス共産党に入って、反ナチス的な思想を持つようになりますが、それも彼女が強く影響しています。

それというのも、彼女がユダヤ系の血筋だったため、当時、ユダヤ人を迫害していたナチスに反抗していたからです。

そんな、活発で自立したドラ・マールと愛人関係にあったピカソですが、実はこの時に、付き合っていた愛人がもう一人いました。さらに、正妻もいたために、派手な四角関係の恋愛模様を繰り広げていたのです。

そのため、彼の周りでは、女性同士の喧嘩もしょっちゅう起こっていたようです。ドラ・マールともう一人の愛人フランソワーズ・ジローが、ゲルニカを描くピカソの横で、取っ組み合いの大喧嘩をしていたというのです。

何とも濃厚な恋愛関係を持っていたピカソですが、そういった人間模様さえ、絵の材料にしてしまうのが彼の凄いところです。こうした愛人の泣き叫ぶ様子を「泣く女」として、題材に選び、シリーズ化していったのですから。

数ある「泣く女」シリーズの中でも、特に名作と言われる1937年の作品は、子どものような自由な表現を追い求めたピカソの特徴が良く出ていると言えます。

泣く

派手な色使いや自由奔放な形の組み合わせは、まるで子供が描いた絵のようです。

しかし、この作品にはピカソの緻密な作画技術も盛り込まれているのです。

例えば、画面の女性の顔を良く見て見ると、正面や横の視点から見た表情を同時に描いていることがわかります。

さらに、ハンカチを持つ手と、口元を覆う手を重ねて描いています。

つまり、色々な視点からの情景を同時に表現しているのです。

このように沢山の視点からモデルを描くことで、泣いている女性の表情や感情を鑑賞する人に、もっと直接的に伝えられるようにしているのです。

深い関係の愛人だったからこそ、ピカソはドラ・マールの表情や感情を手に取るように把握できたのかもしれません。

この作品から、恋多き男性としてのピカソの生き方が伝わってくるようですね。

ピカソの怒りがこめられた名作「ゲルニカ」。その見どころをご紹介!

ピカソの怒りがこめられた名作「ゲルニカ」。その見どころをご紹介!

ピカソと言えば、派手で華麗な色彩を思い浮かべる人は多いはず。

しかし、今回ご紹介する「ゲルニカ」は、白・黒・灰色のモノトーンだけで描かれています。

ゲルニカ

しかも、3.5m×7.8mという巨大なキャンバスの中には、泣き叫び逃げ惑う人の姿や、ガラガラと何かが壊れているかのような幾何学模様の塊が描かれています。

ただ事ではない画面の雰囲気から、観る人の感情を揺さぶってきます。

混沌とした雰囲気を持った作品「ゲルニカ」ですが、ピカソはどんなメッセージを込めたのでしょう。

もともと、ピカソの作品は、原色を使った派手な色彩と、幾何学模様を組み合わせた人物表現が有名です。幼少時の頃から、卓越したデッサン力を持っていたピカソは、写実的に物を描くのはお手の物でした。

フィンガーペイント

そのために、彼が理想とした表現方法は、子どもの絵のように自由奔放に描くことでした。そのために、実際の物の形や色にとらわれず、自分の感性が赴くままに描くというスタイルを創り上げていきました。

そんなピカソが、自分の持ち味である色彩を封じてまで描いた作品が「ゲルニカ」です。この作品に描かれているのは、第二次世界大戦の頃、ナチス率いるドイツ軍がスペインのゲルニカという町を無差別爆撃した情景だと言われています。

普通、戦争というのは、軍事的に重要な拠点を爆撃するものです。しかし、この時の爆撃は、一般市民も対象となっていました。

さて、ここでもう一度「ゲルニカ」を見てみましょう。

絵の中に描かれているのは、牛や馬、子どもを抱きかかえる女性、天を仰いで慟哭する人、地面に倒れた兵士と思われる男性等、一方的に虐殺された人の姿です。ゲルニカの無差別爆撃は、そこに暮らしている人の日常を根こそぎ奪っていきました。

ピカソは、当時、パリ万国博覧会に出品するために別の作品を描いていました。しかし、このゲルニカへの無差別爆撃を聞いて、テーマを変更したのです。

自分の母国スペインへの無慈悲な攻撃に対して激怒したピカソ。その怒りが名作「ゲルニカ」を生み出したのでした。

当時の専門家の評価は、あまり良くなかったようです。しかし、現代では、戦争に対する戒めの象徴として、多くの人に愛される作品となりました。

ピカソが描いた「ゲルニカ」は、パリ万国博覧会のスペイン館で展示された後、ニューヨーク現代美術館に展示されていました。1981年にスペインに戻り、現在はスペイン国立ソフィア王妃芸術センターに展示されています。

この巨大な絵画が、第二次世界大戦の戦禍を潜りぬき、無傷のまま現代まで残っているのは奇跡かもしれません。戦争の悲惨さが表現されている「ゲルニカ」は、争うことの無意味さを教えてくれます。